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百楽のランチ 千年の西安寺 [いわなが姫の丑の刻参り]

JR・近鉄の王寺駅前(奈良県王寺町)の正午。

いつものように
リーベル王寺の地下のフード・コートで
ランチにしましょうか。
ここには格安の
ラーメンやホットドッグがあります。

おなじ階にレストランも並んでいます。

あ!
60 周年!
北京料理の百楽があります。
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近鉄を通勤に使っていた大昔
沿線によく見かけた中華料理店ですが。

高級そうで私には敷居が高くて
宴会や接待のときぐらいしか
入ったことがありません。

定食は 1,200 円以上のものばかりですか。
あれ!?
サービスランチは 900 円(税込)?!
たまには高いけど
ここでは安いランチを食べてみましょうか。

酢豚 !麻婆豆腐!海老の天ぷら!
鶏の天ぷら!スープ!ザーサイ!
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久し振りのご馳走です。

ごはんはお代わりできました。
上品な私は、、、当然、、、!
ま!今日だけは(?)上品はやめて
お代わりしたのでおなかいっぱい。

ポットで熱いプーアール茶がきました。
3 杯飲んでやめましたが
まだ!たっぷりありました。
なんだかうれしい。



とぼとぼ近鉄・田原本線!
さらにJR関西本線に沿って歩けば
舟戸(ふなと)神社で発掘がつづいています。
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西安寺(さいあんじ)跡なんですね。
聖徳太子が建立したとされている寺院です。

今回の調査で塔の基壇が出たのですか。
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法隆寺の五重塔と同規模で
推定建立時期もおなじらしい。
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すごいものが出ましたね。

傾斜地のせいか
堆積の土砂が異常に少ない。

しかもその土砂の中に
ビニール片が入ったりしています。
最近の堆積でしょう。
よくそれで
千なん百年も保存されていましたね。

忍冬蓮華文軒丸瓦が出ています。
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聖徳太子ゆかりの寺院に多い忍冬文。

忍冬(にんどう)とは
私の知っている
スイカズラのことでしょうか。
あまり目立つ花でもないのですが。



それで聖徳太子が実在したのかどうか
業績や伝説が真実かどうかは疑問ですが。

なぜ聖徳太子は天皇でもないのに
日本書紀では
異様にたたえられているのか。

蘇我入鹿の業績を
かれの手柄に書いたのか。

推古天皇は聡明そうで在位は長い。
それなのに摂政がいるのかどうか。

推古帝と
聖徳太子は男女の仲はなかったのか。
貴い血は濃いほどいい時代
兄弟姉妹叔父叔母姪甥との婚姻は
喜ばれていたのですが。

なんか不思議な疑問がつぎつぎ起きて
払拭できませんね。



せん(塼)も出たのですね。
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古代のタイル!?
いや煉瓦(れんが)でしょうか。
今でも中国の
古い寺院の床に敷かれたりしていたのを
見たことがあったような。
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しかばね累々の里・精華町 [いわなが姫の丑の刻参り]

十三重石塔のある古刹(こさつ)があります。
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京都府精華町の来迎寺。

石塔の向こうに
「心中宵庚申(しんじゅうよいごうしん)」の
お千代・半兵衛夫婦とその子の墓がありました。

母が死ねば
おなかの赤ちゃんも死んでしまいます。
その子の墓もちゃんと建てたのですね。

「心中宵庚申」は享保 6 年(1721)
大坂の生国魂(いくたま)神社で起きた事件を
近松門左衛門(1653 ~ 1725)が
人形浄瑠璃に脚色したものですね。

ということは!近松晩年の作ですか。
でも!他の心中ものと
あまり変わり映えしないストーリィのような。

近松の作品は浄瑠璃では
2、3 度観たかも知れません。
他には
里中満智子のコミックで
読んだかも知れません。
それぐらいで生意気いってすみません。

いずれにしても教養のない私には
面白くもなんともない事由で死んでいますね。



「釈迦の池」というため池があります。
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陶芸家(芸術家)の
河井寛次郎(1890 ~ 1966)が
「魔法にかけられた」風景だそうな。

その当時と趣が違うのかも知れませんが
私にはなんにも感じない池ですが。
私は芸術家ではなく
ゲイじつ家!いや!ゲージツ家ですからね。

畑ノ前遺跡に着きましたが
土盛りがあるだけの公園ですね。
棚田!?
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棚田と書いてありますが
遺跡ですか。
オブジェですか。
水も得られないような棚田ですね。

精華大通りをゆるやかに上って行きます。
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大通りというだけあって
滑走路のような幅員のある道です。

精華町は古い里と聞いたような。
こんな京(みやこ)のメイン通りのような道も
歴史があるのでしょうか。



「けいはんな記念公園」に着きました。

有料の水景園をひとめぐり。(拙ブログ 2017/02/25
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「谷あい」に梅が咲いています。
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このあたりは無料です。

芝生広場を斜めに横断。
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あ!いいじゃないですか。
石垣の上に四阿(あずまや)があります。
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石垣にヘビや小動物が棲めそうです。



このあたりは工業地域ですか。
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あれ!?それとも住宅地域ですか。
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床面積の大きそうな住宅が
威風あたりを払うがごとし。

お金持ちの町かも。
日本の格差がますます広がっています。
広がっていると思うのは
奈落の底で
高い天を仰いでいる私だけでしょうけど。



おなかが空いたので帰りましょう。

稲植神社に手を合わせますか。
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大きな鎮守の森が残っていて
すてきじゃないですか。

田園地帯の中の大きな建てもの。
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精華町役場ですか。
じゃ!食堂の類はありますよね。
安い!ですよね!きっと。

ありました!
が!午後 1 時過ぎていたので営業終了!?
閑散として人がいないのでそんなもんですかね。

「せいかガーデンシティ」とかいう商業施設の
フードコートで
「牛すじカレーうどん」と「たこ焼き」のセット。
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600 円。
これ!カレーうどん?!
ちっともカレーの味がしないんですがね。



近鉄・新祝園(しんほうその)駅から乗車。
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日本語にうとい
おフランス人(フランス人にあらず)の
私にはなかなか読めない駅名です。
ちなみに
隣接のJRは「祝園(ほうその)」駅です。

「日本書紀」崇神天皇の条に
残酷な逸話がありました。

天皇に背いたという
武埴安彦(たけはにやすひこ)を
彦国茸(ひこくにひく)が射殺したのですね。
それであわてて逃げる武埴安彦軍を追いかけて
ばっさばっさと首を斬り落としたとか。

大将が死んだのですから
兵士を皆殺しにしなくてもいいようなものですが
記・紀にはあちらもこちらも
残酷この上のない歴史しかありませんね。

「屍(しかばね)があふれた」
「その地を羽振苑(はふりその)と名づけた」
とあります。

「はふり」とは
「放る」とか「ほうむる」とかいう意味?!
その「はふりその」が
「祝園(ほうその)」になったらしい。
漢字が逆の意味の字になっていませんか。

昔は祝園村と呼ばれていたらしい。
すごく古い里でしたね。



(宇治谷孟著/全現代語訳 日本書紀/参照)
(敬称略)
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鳥見山 まつりのにわ [いわなが姫の丑の刻参り]

大きな円筒埴輪(はにわ)でしょうか。
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桜井市立図書館の前。(上の画像の右横)
メスリ山古墳(奈良県桜井市)から出た
日本最大級といわれる円筒埴輪を
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で
見たばかりですが(拙ブログ 2017/01/24
そのなん倍もありますね。

ん?!
今!地図を見たら
図書館とメスリ山古墳とは
地図上直線で 1km も離れていませんね。
どこにもなんの説明も書いてありませんが。

すぐ近くに等彌(とみ)神社。
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境内の広い神社です。
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天候が猫の目のように変わる日です。
す~っと暗くなれば
小心ものにはおどろおどろした樹々の中を
こわごわ進みます。

「霊畤拝所」「斎場山」「庭殿」
「白庭山」「霊畤」の案内板があります。
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より暗いところです。
カメラがフラッシュを要求しています。
ま!もっとおどろおどろしたものが
目を覚ましたらいけないので焚きませんが。
最近のコンパクトカメラはなんとか撮れますね。

登ります。

ほどなく「霊畤拝所」の大きな碑がありました。
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「霊畤」とは「まつりのにわ」と読むらしい。
そこを拝する場所なんでしょうか。

水平に倒れた木が通せん坊。
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そこから垂直になん本も幹が立っています。
こんな盆栽を作るのが好きな人がいましたね。

また石碑があります。
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等彌(とみ)神社の鳥居の横にあった境内の
案内板にあった「句碑」はこれでしょうか。
でも!これは短歌ですけどね。

この辺は小さくアップダウンしながら
尾根筋に道がつづいています。
このあたりが「庭殿」「斎場山」でしょうか。

「白庭」です!
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どんなことをするところでしょう。

やがて!
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頂上かな。
鳥見山(とみやま)の頂上ですね。
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霊畤(まつりのにわ)とあります。

初代の天皇の神武天皇が
橿原神宮あたりで即位して 4 年後
ここで
大嘗祭(だいじょうさい)を催行したそうな。

昔からやっぱり
「米」の民族なんでしょうか
収穫を祝う新嘗祭(にいなめさい)が
重大な催事だったのですね。
即位後
最初に行う新嘗祭を大嘗祭というらしい。
それを行う場所が
霊畤(まつりのにわ)なんですね。

しかし!橿原神宮から
地図上の直線で 7km 以上はなれていますがね。



神武天皇は
名前をたくさん持っているようですが
私たち落ちこぼれは
日本書紀に出てくるひとつ
「神日本磐余彦天皇」
(かんやまといわれひこのすめらみこと)とか
古事記によく出ている
「神倭伊波礼毘古命」
(かむやまといわれびこのみこと)だけを
かすかに覚えていますが。

いずれにしても
「いわれ」がついています。

今の桜井市あたりは「磐余(いわれ)」
東征の最後にたどり着いた地なんですね。

それでこの地を「磐余」と改名し
自らの名も「いわれ」と称したということは
確かなようです。

そして突然!
「橿原」に「宮」を建てたとは!?
阿呆には理解しがたいのですが。

それでもいいのですが
じゃ!自らを
「橿原彦」と名乗らなかったのは
どうして?!

先日登った国見山は(拙ブログ 2017/01/26
橿原の宮から 6km ばかり離れていました。
なぜ!すぐそばの畝傍山(うめびやま)から
(後の橿原の宮になる)下の地を
望まなかったのですか。

昭和になってから橿原神宮の拡張のとき
縄文時代から奈良時代に渡る
広大な遺跡が発見されたとか。

神武天皇が大和になぐりこんだころ
そのあたりにすばらしい国があったのかも。
国見山から鳥見山から
この集落を舌なめずりしてながめる
野獣の目をした神武天皇を
想像してしまいます。

畝傍山だとあまりにも近過ぎて
のぞき見するには
警戒されたりしますからね。



桜井市と隣の宇陀市の市境にも
鳥見山(とみやま)があります。
宇陀市は
記紀の鳥見山はここだと主張していますが。

そこからは
橿原は 15km ばかり離れていますね。

しかし!ハイカーや観光客の大半は
鳥見山といえば宇陀市のほうを指します。

こちらの鳥見山の
知名度が低いのはどうしてでしょう。
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御所の国見山 あきつが!白鳥が!飛ぶ [いわなが姫の丑の刻参り]

「嗛間丘」の石碑。
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横には「神武天皇聖蹟傳説地」とあります。

「嗛(口偏に兼)間丘」は
「ほほまのおか」と読むらしい。

奈良県御所市の標高 229m という
文字通り丘のような国見山頂です。

全国に国見山という地名はあまたありますが
それぞれの時代の為政者が
威張って自国を鳥瞰(ちょうかん)した山を
そう命名したのかも知れませんが
たぶん!
この山が国見山名の嚆矢(こうし)でしょう。

神武天皇が大和の国をほぼ強奪し終えたとき
この丘に上って
「国を得た」
「狭い国だがあきつがとなめしているようだ」
といったとか。

「すばらしい国を得た」と
歓喜しているようですが
「あきつ(とんぼ)」の
「となめ(交尾)」とは?!

盆地の周囲の山の形容だという人がいましたが。

日本列島はとんぼの連なりのようだという人も。
まさかね!
この小さな丘から日本全島が
俯瞰(ふかん)できる訳がないでしょう。

この記録は日本書紀だけのものでしょうか。
日本書紀は公的な歴史書のような性格ですよね。

同じ時期に成立した古事記に
記載があるのでしょうか。

その天皇家の私的な記録のような古事記には
神武天皇の乱暴な行状と
女性好きなことばかり記述していませんか。

その女性好きを日本書紀は婉曲に
「とんぼのとなめ」と記したのでは。

早いはなし!
「おお!いい女が」
「いっぱいいる国を手に入れたぞ!」
「となめだ!となめだ!頑張るぞ!」
と喜んでいる顔しか浮かばない
無知!無恥の私です。

阿呆がいっていることなので
神武帝を敬愛する方!怒らないでくださいね。



東に降りれば国見神社がありました。
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小さな(失礼!)神社ですが
この石灯籠の多さは!なんですか。



西に回れば
山裾に鎮守の森のような林が見えます。
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日本武尊(やまとたけるのみこと)の
白鳥陵でした。
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「やまとたける」は九州!出雲!東国と
16 歳から十数年!戦いに明け暮れます。

伊吹山になにか(よく分かりません)を
退治に行って死にました。

伊勢国能褒野(のぼの)に葬られたのですが
魂が白鳥になって飛び出し
河内国
旧市邑
(ふるいちのまち=ふるいちのむら)に
降りたので
そこに陵を造ったとか。
現在!羽曳野市の
白鳥陵古墳と治定されているところですね。

それは日本書紀!
古事記では
八尋白智鳥(やひろしらちどり)になって
河内国の志幾(しき)に飛んでいます。

今の地名でいえば
古市と志紀!明らかに別ですけどね!
ま!どっちでもいいですけどね。

それに日本書紀では河内国へ行く前に一度!
大和国琴弾原(ことひきはら)に降りたそうな。

そこがここらしい。

しかし!古くから琴弾原の古墳とは
国見山の北の山裾の
掖上鑵子塚(わきがみかんすづか)古墳が
有力な説らしいのですが
宮内庁の比定!
いつも間違いない!いつも正しい。

どちらにしろ!
遺骸はないのですから無視しても
庶民の生活に変わりはないでしょう。

それに!記・紀ともその後再び飛び立ち
いずこかに消えたといっています。

ま!不思議なことばかり。



灰色の脳みそには
「やまとたける」は難し過ぎます。

なぜ「陵」なの?!

宮内庁は天皇・皇后の埋葬場所を
「陵(みささぎ)」と呼んでいますが
「やまとたける」は景行天皇の皇子ですがね。
「墓」と表記するのがフツーでは。

降り立った中継地それぞれに
「陵」が必要ですか!?

古事記では
景行天皇の項目の情報量がずば抜けて多い。
神武天皇より文字数が多いのですが
その大部分が
「やまとたける」の記事なのはどういうこと?!

日本書紀では
景行天皇の命令を忠実に
喜んで(かどうかは分かりませんが)
実行しているようなんですが
古事記では苦しんで疑問を感じながら
遠征しているようでもあります。

それなら
京(みやこ)にもどるときには
後代の菅原道真にみられるように
怨念の化身となって帰ってもいいはずなのに
なんと!純白な白鳥になって飛ぶとは?!

クマソタケル!イズモタケルを殺して
その敗者のタケルの名を襲名するとは!?



1 月なのに
レンゲソウがたくさん咲いていました。
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不思議ですねぇ。
不思議と思うことがおかしいのかも。
世の中!そんなものかも。
わずかな情報を鵜呑みにして
考えることなかれ。

ともあれ
「やまとたける」の伝記は
手塚治虫著/火の鳥 ヤマト編/が
私には一番納得できますかも。



(上記図書の他)
(安本美典著/大和朝廷の起源/)
(宇治谷孟著/全現代語訳 日本書紀/)
(主婦と生活社/古典コミックス 古事記/)
(森浩一著/記紀の考古学/をめくりました)
(敬称略)
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石切の近鉄廃線 野蛮人たちの戦い [いわなが姫の丑の刻参り]

駅の跡があります。
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大阪と奈良を隔てる生駒山の中腹。
こちらは大阪側です。
フェンスと工事用のくるまがじゃまで
よく見えませんが
奈良に抜けるトンネルの入り口があります。
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もちろん!トンネルも閉鎖されていますが。

ここは近鉄・奈良線の孔舎衛坂駅の跡だそうな。
なんと読むの?!
難解な漢字。

「くさえざか」駅ですか!

昭和 39 年(1964)廃止。
新しいトンネルができてルートが変更されたらしい。

孔舎衛坂駅と
大阪の方へつぎの駅の石切(いしきり)駅が
廃止され
その間に新しい石切駅ができたとか。



孔舎衛坂駅は
大阪電気軌道・日下(くさか)駅の名で
大正 3 年(1914)に誕生していました。

その後!
鷲尾駅と改名したとか!理由は知りませんが。

さらに昭和 15 年(1940)難解な
孔舎衛坂駅になったとか。

昭和 15 年は「皇紀二千六百年」
神武天皇バンザイ!
猫も杓子ももろ手を上げてバンザイのときです。



日本書紀によると
神武天皇が東征して畿内に入り
まず生駒山を越えようとします。

当時!大阪湾の奥に河内湾があったのです。
生駒山の急峻な山裾まで海だったはず。

上陸したところ
長髄彦(ながすねひこ)という
たぶん脛(すね)の長い部族(どんな人種です?)が
迎え撃って
神武の兄の五瀬命(いつせのみこと)に矢を当て
撤退させています。

その戦いの場所が孔舎衛坂(くさえのさか)だそうな。

だから「皇紀二千六百年」記念にふさわしく
改名したのでしょう。
今から思えば理解に苦しむはなしですが
当時の立派な(?)国民には
不思議なことじゃなかったはず。



あれ?!
その神武天皇が上陸したのは
河内国の草香(くさか)村の
白肩津(しらかたつ)とありますがね。

神武天皇!といっても
このときには神日本磐余彦天皇!
古事記の表記では神倭伊波礼比古命!
すなわち
カムヤマトイハレビコノ(スメラ)ミコトでしょうけど
メンドくさいので神武天皇といいますが。

また!古事記では
日下(くさか)の蓼津(たでつ)で
防戦したとありますが。

この地は近代まで日下村と称していたそうです。

孔舎衛坂(くさえのさか)ではなく
「くさかのさか」じゃないの?!

写本が間違っていたのを
また写本して伝わっているのじゃないの!?
根拠はないですが。



しかし!ここで負けているのですよ!神武軍は。

そして!兄の五瀬命は
この傷が元で絶命しているのですよ。
結果!紀伊半島を大きく迂回し
熊野から再上陸をせざるを得なかった
あんまり縁起のいい地名ではないのに。

ことさら駅名を
変更する必要はないように思えますがね。

「皇紀二千六百年」そのことばが
実体のない
得体のしれない呪文のようでもありますけどね。



近鉄はこの地をどうするのでしょう。
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工事車両が出入りして
なにやら騒々しいですが。

もう整地して歴史から消すのでしょうか。

眼下に建てものがひしめいています。
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5,000 年前は河内湾か河内湖だったところ。

このあたりはそうとう高台ですね。

神武軍は下からきたとすれば
上から戦う方が有利だったのかも。



余談ですが
古事記・日本書紀は
実話じゃないといわれて久しいのですが。
あまりにも荒唐無稽なはなしばかりですから。

ところが!
特に古事記は天皇家の歴史書のはずなのに
結構恥なこと!情けないこと!野蛮なことを
書き連ねています。

偽書なら!
まったくの作りばなしなら!
いいことだけ!自慢ばなしだけ書いてもいいはず。

記・紀は似ているようで
ビミョーに違います。
成立が 10 年も違わないのに。

ということはなんらかの史実が確かにあって
伝えられた形がいろいろ変化していたのかも。

下の河内湾に野蛮な船団が見えます。

畿内の部族から見れば
辺境の九州から「力」を誇示して上陸する神武軍は
野蛮に見えたはず。

戦いはあったのですよ!きっと。
そのときにはこちらが正義のはず。



(新潮社/日本鉄道旅行地図帳/)
(福永武彦訳/古事記/)
(宇治谷孟著/日本書紀/等を参照しました)
タグ:古事記 廃線
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